
1. 誰も悪くないのに、話が噛み合わない
数年前、ある従業員の家庭の事情に合わせて、始業時刻を30分だけ遅らせたことがありました。
「じゃあ、しばらくはそれでいいよ」
たしか、そんな言い方だったと思います。一時的なつもりでした。事情が落ち着けば戻すし、他の人に広げる話でもない。就業規則をいじるほどのことでもないので、口頭で決めました。急いでいましたし、そのときはそれが最善だったと思います。実際、この判断を責める気にはなれません。
そして、数年が経ちます。
その間に、同じような事情を抱える人が二人増えました。誰も申請書を出していませんし、誰も決裁していません。ただ、前の人がそうしていたので、そうなった。悪気はどこにもありません。
あるとき、シフトの組み方を見直すことになりました。経営者としては、そろそろ整理しておきたい。「あの30分の運用、一度ルールとして整えませんか」——そう切り出した瞬間、職場の空気が少し固くなりました。
後で個別に話を聴くと、こう言われました。
「当然、認められているものだと思っていました」
経営者は、認めた覚えがありません。認めていないから、文書にもしなかった。従業員のほうは、数年間続いたものを認められていないとは思っていません。むしろ、いま急に持ち出されたことのほうに驚いている。
どちらも、嘘はついていません。悪意もありません。それでも、話は噛み合わない。
こういう場面に立ち会うたびに思うのは、問題が起きたのはこの日ではない、ということです。ズレはもっと前から、静かに育っていました。
2. 空白は、放置されない
なぜ育ったのか。伝えなかったから、と言ってしまうと少し雑です。
正確には、伝える機会がないまま時間が過ぎた。そしてその間、現場には小さな空白がありました。「これは、いつまで続くのか」「なぜ、あの人だけなのか」——誰も聞かないし、誰も答えない。
ここで起きるのは、空白がそのまま残ることではありません。人は、わからないことをわからないまま置いておくのが、あまり得意ではないからです。空白があると、手持ちの材料で埋めます。そして埋め方は、たいてい自分に都合のいい方向に寄ります。
これは、従業員が自己中心的だという話ではありません。逆でも同じことが起きます。経営者も、現場が何も言ってこなければ「特に問題はないのだろう」と埋めます。人間の認知は、そういうふうにできている。
こうして、誰も約束していないのに前提だけが出来上がっていく。しかも厄介なことに、埋まった空白は外から見えません。本人にとっては、それはもう「事実」だからです。
だからズレに気づくのは、たいていこちらから何かを変えようとしたとき。整理しよう、見直そう、と動いた瞬間に、初めて相手の前提が姿を現します。
「変えようとしたら、思ったより反発された」。経営者なら制度の見直しで、管理職なら担当替えの一言で、人事担当なら運用のちょっとした整理で、覚えのある方は多いと思います。
あのとき反対されたのは、変更の中身ではなかったのかもしれません。育っていた空白のほうだった、ということが、実はよくあります。
3. 説明を増やしても、効かないことがある
ズレに気づいた組織が、まず何をするか。だいたい、説明を増やします。
資料を作る。説明会を開く。文書を配る。誠実な対応ですし、それで解決することもあります。ただ、思ったほど響かない場合がある。むしろ「急にどうしたのか」と、かえって警戒だけが残ることさえあります。
これは説明が下手だからではありません。埋まり方に、合っていないからです。
空白の埋まり方は、大きく三つに分かれます。
一つめは、知らされていない。単純に、情報が届いていない。決まった経緯も、いまの位置づけも、聞いたことがない。いちばん軽くて、伝えれば戻ります。資料や文書が効くのは、この段階です。
二つめは、違う意味で受け取っている。情報は届いている。でも、なぜそうなっているかが共有されていないので、それぞれが自分なりの理由を当てはめている。「たぶん、コストの問題だろう」「あの人が言い出したんだろう」。ここに資料を足しても動きません。足りないのは情報量ではなく、趣旨だからです。
三つめは、そもそも言葉になっていない。ここまで来ると、当人たちにも自覚がありません。「当然そうだろう」という前提が、双方に別々の形で出来上がっている。
冒頭の例が、これです。
「じゃあ、しばらくはそれでいいよ」と言った側は、しばらく、という言葉に期限を込めたつもりでした。言われた側は、そこに期限を聞き取っていません。どちらも、そのことを確かめたことがない。
だから数年後、「当然、認められているものだと思っていました」という一言が出てきます。これは主張ではなく、本人にとっては事実の確認です。ずっとそう思って過ごしてきたのだから、当然そうなる。
この段階は、説明でも制度でも戻りません。言葉になっていないものは、一度、表に出すところから始めるしかない。手間はかかりますが、逆に言えば、出しさえすれば話し合える状態になります。
この三つのズレを、私は労使間ギャップ®(商標取得済み)と呼んでいます。
そして厄介なのは、この三つが時間とともに進むことです。
知らされていない状態を放っておくと、人は勝手に意味を補います。補った意味が数年もつと、それは前提になります。「聞いていない」が「どうせ言わない組織だ」になり、やがて「ここはそういうところだ」になる。情報の問題だったものが、いつの間にか関係の問題に変わっていく。
早く気づくほど、安く済む。
ズレの手当てに関しては、かなり正確な法則だと思っています。
4. 詰まっているのは、意思ではなく余力
ここまで読むと、「要するに、ちゃんと伝えればいい」という話に見えるかもしれません。そのとおりです。ただ、それができないから困っている、というのが実際のところだと思います。
顧問先で話を聴いていて感じるのは、伝えたくない経営者は、ほとんどいないということです。隠す意図もない。むしろ「言ったほうがいいのはわかっている」と、たいていの方が言われます。
止まっているのは、伝える意思ではなく、伝え方を考える工程のほうです。
何をどこまで話すか。決まっていないことをどう扱うか。誰から言うか。管理職を先に通すか、全員同時か。どの言葉を使えば、余計な不安を呼ばずに済むか。前に別のことを言った経緯があるなら、そことどう整合を取るか。
これを毎回ゼロから設計するのは、想像以上に重い作業です。
しかも、この重さは誰にも見えません。「今日は伝え方を考える余力がなかった」と口に出す人はいないからです。外からは何も起きていないように見える。その間も、空白のほうは静かに育っています。
つまり、失われているのは時間ではありません。時間なら、日程を空ければ確保できます。足りていないのは、言い方を考える余力です。しかもこの余力は、経営が忙しいときほど減る。そして忙しい時期は、たいてい組織が変化している時期でもあります。いちばん伝えるべきときに、いちばん考えられない。
これは管理職も同じです。説明すべきことがあるのに、言い方が定まらないまま数日が過ぎる。悪気はなく、単に別の業務で頭が埋まっている。人事担当も、制度の趣旨は理解しているのに、それを現場の言葉に置き換えるところで止まる。
余裕が失われると、伝達が止まる。伝達が止まると、空白が育つ。
職場の不調の多くは、誰かの悪意ではなく、この順番で起きているように思います。
だとすれば、打ち手は「もっとちゃんと伝えましょう」ではありません。それは、すでに本人がいちばん思っていることなので、言われても状況は動かない。必要なのは、伝え方を考える工程を、少し軽くすることです。
ひとつだけ、今日からできることを挙げておきます。
決まっていないことを、決まっていないと伝える。
多くの場合、私たちは「決まってから伝えよう」とします。中途半端に言うと混乱させると思うからで、これも誠実さから来ています。でも、決まるまでの期間がそのまま空白になり、その間に補完が進んでしまう。
「これは今検討中で、◯月頃に方向が出ます」——それだけで、空白の自動補完はかなり止まります。内容を伝える必要はありません。検討している事実と、いつ頃わかるか。この二つで足ります。
行動としては小さいのに、効き方は大きい。しかも、伝え方をゼロから設計しなくていい。余力が少ないときほど、使いやすい打ち手だと思います。
5. 伝え方の設計を、引き受ける
ここから少し、自分の話をします。
私の仕事は、就業規則を作ることでも、手続きを代行することでもありません。いえ、それもやっています。中心にあるのはそこではない、という意味です。
中心にあるのは、いま申し上げた「伝え方を考える工程」を、経営者や管理職から引き取ることです。
ただし、伝える主体は渡してもらいません。
私が代わりに説明すれば、その場は早く終わります。専門家が言えば、角も立ちにくい。でも、それをやると次がありません。経営者が自分の言葉で言えないままだと、二回目も三回目も、私を呼ばないと進まなくなる。それは支援ではなく、依存を作っているだけだと思っています。
引き受けるのは、設計の重さだけです。
関わり方は、ズレの層によって変えています。
知らされていない、が主な原因のときは、文面を一緒に作ります。何をどこまで書くか、どの順で並べるか。ここが整えば、あとは配れば動きます。
違う意味で受け取っている、が原因のときは、事前の壁打ちに時間を使います。経営者ご自身が「なぜそうしたのか」を自分の言葉で言えるようになるまで、聴いて、問い返して、整理する。ここは代筆では効きません。趣旨は、本人の口から出ないと伝わらないからです。
そもそも言葉になっていない、まで来ているときは、同じ場に居合わせます。会議に同席し、その場の温度を見ながら、必要なら言葉を足す。前提が表に出る瞬間は、たいてい予定調和では訪れないので、その場にいないと扱えません。
つまり、メニューが三つあるわけではありません。見立てが先にあって、形は後から決まります。
そして見立てのために、私は両側から話を聴くようにしています。
同じ問いを、経営者にも従業員にも投げてみる。返ってくる答えの差分に、ズレの層が現れます。経営者が「何度も言っている」と言い、従業員が「聞いたことがない」と言うなら、それは知らされていないのではなく、届き方の問題です。両方が同じ出来事を語りながら、まったく違う意味を当てているなら、解釈のズレです。
片側からだけ聴いていると、この差分が見えません。差分が見えないまま打った手は、たいてい空振りします。
ただ、これは技術というより関係の問題でもあります。どちらか一方の代理人だと思われていたら、本音は出てきません。経営者からは「現場に甘い」と思われず、従業員からは「経営側の人だ」と思われない。この位置に立ち続けることが、実は仕事の半分くらいを占めている気がします。
6. だから、件数を絞っています
お気づきかもしれませんが、この関わり方は、あまり効率がよくありません。
両側から話を聴くには時間がかかります。壁打ちは、こちらが正解を渡す作業ではないので、経営者が自分の言葉にたどり着くまで待つことになります。会議に同席すれば、その日は半日が消えます。しかも、その半日で目に見える成果物が出るとは限りません。
一件あたりに、それなりの時間と思考を使う。となると、抱えられる数には上限があります。
だから私は、顧問先の数を意図的に絞っています。報酬も、それに見合った額でお願いしています。
これは「高付加価値だから高い」という話ではありません。順番が逆です。深く関わるために件数を絞る必要があり、件数を絞るために単価が要る。構造として、そうなっているだけです。
もう少し正直に言えば、これは自分の余力を守るための設計でもあります。
先ほど、余力が失われると伝達が止まる、と書きました。これは支援する側にも、そのまま当てはまります。抱える件数が増えると、目の前の相談を「処理」してしまう。質問に答えて、答えは正しくて、でも背景を聴く余裕がない。その状態でも仕事は回りますし、相手も不満は言わないでしょう。ただ、ズレの層を読み違えることは確実に増えます。
見立てを間違えないためには、こちらに余裕が要る。余裕は精神論では確保できないので、構造で作るしかない。それが「件数を絞る」ということです。
そのうえで申し上げておくと、これは唯一の正解ではありません。
手続きを正確に、速く、安く回してもらうことが最優先の時期は、確かにあります。立ち上げ期や、まず体制を整えたい段階では、そちらのほうが合理的です。実際、私も「今はそちらのほうがいいと思います」とお伝えすることがあります。
判断の目安があるとすれば、困っていることが「手続き」なのか「伝わらなさ」なのか、でしょうか。制度を作れば済むなら、前者で十分です。制度はあるのに動かない、説明しているのに伝わらない、という感覚があるなら、後者の関わり方が要る場面かもしれません。
7. 結び——変えた感は、出なくていい
こうして書き出してみると、私が顧問先にお伝えしていることと、自分の事務所でやっていることは、同じでした。余裕がないと、伝えることが後回しになる。後回しは外から見えない。見えないまま空白が育って、あるとき前提のズレとして表に出る。だから、余裕を構造で確保する。
これを職場に対して言っておきながら、自分の事務所が余裕のない状態だったら、まったく説得力がありません。少なくとも私は、そういう専門家を信用しないと思います。
そして、私が目指しているのは、摩擦のない職場ではありません。
不平不満がまったくない組織は、たぶん健全ではないですし、そもそも実在しないと思います。目指したいのは、多少の揺れがあっても壊れない職場です。言いにくいことが言える。ズレたら、ズレたと言える。土台に敬意があれば、波が来ても持ちこたえられる。
安心して過ごせる場であると同時に、そこを足場にして外へ出ていける場であること。守りのための安心ではなく、動くための安心です。
そのために私ができるのは、大きな改革を持ち込むことではなく、空白が育つ前に、小さく伝わるようにしておくことだと思っています。
地味な仕事です。変えた感も、あまり出ません。
ただ、静かに職場が良くなっていくときというのは、たいていそういうものだと思っています。
※
なお、この三つのズレを整理するための一枚を、ご相談の場で使っています。ご自身の状況で埋めてみると、片側までは書けるのに、もう片側が推測になる——ということが、たいてい起こります。そこが、いまのギャップです。
この記事を読んで、
ご自身の組織のことが少し気になった方へ
記事でご紹介した三つの層を、実際のご状況に当てはめて整理する場を設けています。
労使間ギャップ確認セッション(60分・オンライン・単発完結)
気になっている出来事を一つ選び、経営者側と従業員側の受け取り方を、三層に分けて整理します。最後に、次に打つ一手を決めて終わります。
継続を前提とした場ではありません。
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